ロック・ユー(2001年)







DATE

A Knight's Tale/アメリカ

監督:ブライアン・ヘルグラン


<主なキャスト>

ウィリアム・サッチャー:ヒース・レジャー
ローランド:マーク・アディ
アンジュー伯爵アダマー:ルーファス・シーウェル
ジョスリン:シャニン・ソサモン
ジェフリー・チョーサー:ポール・ベタニー
ワット:アラン・テュディック
ケイト:ローラ・フレイザー
ジョン・サッチャー:クリストファー・カザノフ
クリスティアーナ:ベレニス・ベジョ
トーマス・コルヴィル卿(エドワード黒太子):ジェームズ・ピュアフォイ
                                 ……etc



目次


『ロック・ユー(2001年)』の作品解説

キーワード『馬上槍試合』

『ロック・ユー(2001年)』のストーリー

『ロック・ユー(2001年)』の感想



【作品解説】

 日本では2001年10月に劇場公開されたアメリカ映画。原題の「A Knight's Tale」はジェフリー・チョーサーの「カンタベリー物語」に収録されている「騎士の話」から取られている。中世ヨーロッパを舞台にした中世騎士道物語だが、現代のロックをふんだんに使った異色の歴史映画となっている。2008年に28歳の若さで急逝したヒース・レジャーのハリウッド初主演作品である。



【馬上槍試合】

 現代のトーナメント方式(勝ち抜き戦)の語源となっているトーナメントは、中世からルネサンス期の頃に西ヨーロッパで流行した馬上槍試合の競技会である。騎士の技量を争う競技会または模擬戦争のことであり、トゥルネイ(団体戦)、ジョスト(一騎討ち)などがあった。ジョストでは約80mほど離れて騎馬に乗った騎士がランス(槍)を構えて突撃していき、すれ違い様にランスを突いて、突き落とすというものである。勝ち抜き戦ではなく、個別での試合もあった。正式なトーナメント以外にも類似の競技会があったが、日本語で訳されるときはいずれも馬上槍試合であるという。時代を経るとジョストは格別な人気を博すようになり、トーナメントが廃れていくとジョストの競技会が貴族の娯楽を産めるものとなっていったという。武器もランスに限らずほとんどの種類の武器が使用され、騎馬によるものだけではなく徒歩による戦いもあったという。

 トーナメントが行われるようになったのは11世紀半頃のことで、中世の人々が様々な起源伝説を作っているので正確には分からないが発祥はフランスだと言われている。文献に初めて「トーナメント」という言葉が出るのは1114年にエノー伯ボードゥアン3世がヴァランシエンヌにおける平和条例においてだとされている。初期の頃は、どちらが勇ましいか、どちらの武技が優れているか、実戦と同じ兵装で、実戦に近い形で行われた。勝者は倒した相手の武具や馬を奪ったり捕虜にして身代金を取ることもあったという。当然怪我は当たり前で死人が出ることもあったという。時代が下りトーナメントの規模が大きくなり、制度が整備されると、参加する騎士にとってもトーナメントの主催者にとっても負傷者や死人が続出する事態は良くなかった。安全対策が施されるようになり、馬同士の接触を防ぐための障壁を設けたり、ランスの穂先を折れやし材質にしたりして殺傷能力の軽減が図られ、鎧兜の強度を増しつつ軽量化が図られた。

 あらゆる時代、あらゆる国や地域で、武器を持つ者は平和な時代に実戦形式の模擬演習や戦士としての武勇を競い合う催しは行われていた。トーナメントは12、13世紀になると大きな広がりを見せ、各地で盛んに行われた。トーナメント会場にはお祭りのように大勢の見物人が訪れ声援を送り、貴族たちは物見台から騎士たちの戦いを見物した。トーナメントの主催者はその威勢を示すために盛大に宣伝し、出場する騎士たちには豪勢な宴会と余興でもてなされた。そして勝者には栄誉と祝福が与えられた。騎士たちにとってトーナメントは自身の武勇を世間に示す格好の舞台であり、幸運が舞い込めば出世の道も開けた。

 トーナメントの盛況を快く思わない勢力も存在した。一つはキリスト教会、もう一つは王権であった。キリスト教会はトーナメントで行われるスポーツとは言い難い血生臭い戦いや軍事訓練そのもので、騎士の凶暴性を増幅させるものだと人道的見地から反対した。貴族たちがトーナメントに熱中するあまりに十字軍やレキンコスタといった重要な「キリスト教世界の防衛」という本当の戦争が疎かになると考えた面もあったという。教皇インノケンティウス2世は1130年のクレルモン会議や1139年の第2ラテラノ公会議でこれらの戦いを「呪われたもの」として禁止するばかりでなく、トーナメントに参加して死んだ騎士の埋葬を拒否すると布告した。

 国王たちもまた、荒くれの騎士たちが強盗をしたり一般人に危害を加えたりといった問題を引き起こしたりするのを黙認することはできなかった。また、トーナメントで優秀な戦士や軍指揮官になりうる騎士が命を落としたり再起不能の怪我を負ったりすることを危惧した。フランスでは13世紀半頃に王領でのトーナメントが禁止され、後の王にも受け継がれた。イングランドではヘンリー2世(1133年~1189年)の時代に禁止され、その後、優れた騎士と謳われていた獅子心王リチャード1世(1157年~1199年)の時代には再び解禁された。リチャード1世は十字軍費用捻出の一環として6箇所のトーナメント開催許可地を選定し開催するにあたって認可料を徴収した。その後のイングランド王は気まぐれに近い禁止令を出したため競技の人気低下につながったという。

 人気を博したトーナメントも13世紀の終わり頃から14世紀になると衰退していく。しかし、武勇や十字軍戦争を重視する国王の時代には復活したりして一気に廃れたというわけではないらしい。騎士の名誉をかけての戦いであり実戦的な軍事訓練であったトーナメントは、15世紀、16世紀になると銃火器が戦場の主力となり、傭兵が戦場の主力となる中、騎士の武技や騎馬戦術は時代遅れのものになり、その意味を失っていく。また出場する騎士たちからも危険を伴う集団戦は忌避されるようになり、比較的安全な一対一の戦いに重きを置いた、祭典や祝宴などの余興としての儀礼的なショーと化していく。1559年6月30日にフランス国王アンリ2世が祝宴で余興として開催した馬上槍試合での悲劇は有名なものである。相手の槍が砕け偶発的にアンリ2世の右目を貫いた。懸命な治療も空しくアンリ2世は7月10日にこの傷が原因で死亡した。16世紀をかけて騎士の没落に合わせるように馬上槍試合は衰退していくが、一騎打ちの馬上槍試合は17世紀になっても開催されることがあったという。



【ストーリー】

 14世紀のフランス。主人公のウィリアム・サッチャーは騎士エクター卿の従者として旅をしていた。エクター卿はフランスやイングランドで盛んに行われていた馬上槍試合に参加するために各地を旅していたのである。ところが勝利を目前にした休憩中にエクター卿が急死してしまう。ウィリアムは、鎧と兜で顔が見えないことをいいことに、エクター卿に成りすまして試合に出場する。そして、相手の槍の直撃を受けつつも、何とか勝利を手にした。その試合で手に入れた銀貨を、従者仲間のローランドとワットは3等分して分けようと言うが、ウィリアムはこのまま騎士として一月後にルーアンで開催される馬上槍試合に出場すると言い出した。しかし、馬上槍試合には貴族や騎士しか参加できない。平民であるウィリアムが出場したことがバレたら比喩ではなく首が飛ぶことになる。ローランドとワットは反対するが、ウィリアムの熱意に負けて、最後は協力することに決める。

 猛特訓をしながらルーアンに向かう道中で真っ裸で歩いているジェフリー・チョーサーという文筆家に遭遇する。追い剥ぎにでもあったかと訝しむウィリアム。実は賭博好きのジェフリーが身ぐるみ剥がされた結果なのだがそれを知るのはもう少し先の話である。ジェフリーはウィリアムに服と靴をくれたら貴族証明書を偽造する、と持ち掛け、ウィリアムもそれに乗る。ジェフリーを仲間にしたウィリアムはゲルダーランド出身の「ウルリック・フォン・リキテンスタイン卿」という貴族を名乗り、ルーアンの馬上槍試合に参加する。そんな時、教会で見かけた貴族の女性に興味を持ったウィリアムは声をかけてみるがあしらわれてしまう。試合が始まると猛特訓の甲斐あって勝利を収めるが鎧を痛めてしまう。修理をしてほしいと鍛冶屋を回るが料金は前払いでないと受けないと断られてしまう。しかし、女だてらに鍛冶師を営むケイトの協力を得られることになった。

 勝ち上がっていくウィリアムだったが、強豪のアンジュー伯爵アダマー卿に敗れてしまう。しかし、教会で出会った貴族の女性――ジョスリンがウィリアムに興味を持ち、ウィリアムも彼女に好意を抱くようになった。ウィリアムはアダマー卿を最大のライバルと見据え、新たな大会に参加する。その大会にもアダマー卿は参加しておりリベンジを誓うも、アダマー卿はコルヴィル卿との戦いを前に棄権してしまう。実はコルヴィル卿の正体はイングランドの王子――黒太子エドワードだったのだ。王子に怪我をさせるわけにいかないと仲間たちはウィリアムにも棄権を勧めるが、ウィリアムは黒太子エドワードとの戦いに挑み、堂々と戦い引き分ける。黒太子エドワードは自分の身分に関係なく勝負を挑んでくれたことに喜び、感謝の言葉を口にした。その後アダマー卿は南フランスの戦場へ赴き、ウィリアムは各地の馬上槍試合で優勝を繰り返した。

 イングランドのロンドンで行われる世界選手権に参加するためにウィリアムたちは海を渡る。ロンドン生まれのウィリアムは12年ぶりの帰郷だった。屋根葺き職人だったウィリアムの父親は、まだ幼かったウィリアムをエクター卿に託したのだった。かつての家に、父はまだ住んでいた。年老いた父は、視力を失っているという話を聞き、会いに行く。再会した父は、最初はウィリアムのことを分からなかったが、ウィリアムの「運命を変えた」という言葉で目の前にいるのが息子だと気付いた。再会を喜ぶ二人だが、そんなウィリアムを尾行していたアダマー卿がウィリアムの正体を知り告発する。事態を知った仲間たちもジョスリンも、ウィリアムに逃げろと言う。しかし、ウィリアムの心根はもはや立派な騎士だった。捕縛され、処刑場の広場に連れていかれる。見物の民衆の罵倒を受けるウィリアムの前に、黒太子エドワードが現れる。「自分とウィリアムは似ている」と語った黒太子エドワードはウィリアムの罪を赦し、騎士に叙勲する。自由の身となったウィリアムは、ウィリアム・サッチャー卿として卑劣な宿敵と決着をつけるべく、戦いの場へと向かう。



【感想】

 舞台となっているのは14世紀。イングランドとフランスは英仏百年戦争(1337年~1453年)と後世に呼ばれることになる戦争の只中にあった、と世界史の授業では習うかもしれない。百年戦争前半期の最大の英雄である黒太子エドワード(1330年~1376年)が重要な役割で登場したり、有名なポワティエの戦い(1356年9月)の場面が出てきたりと、ウィリアムたちが馬上槍試合で戦っている間、裏側では血生臭い戦争が行われていることが描かれている。英仏百年戦争という言葉のイメージから、イングランドとフランスと国家間において両国の国民同士が全面戦争をしたという印象を受けるが、そのような見方をするとこの戦争の本質を見誤ることになる。あくまでもフランス領内を戦場にしたイングランド王朝のプランタジネット家とフランス王朝のヴァロワ家のフランス王位をめぐる争いにフランスの諸侯が二派に分かれて争った戦争であった。……が、そういった話は、別の作品紹介で書ければいいなぁ、と思う。

 この映画を一言で言ってしまえば「平民の若者が、主の死をきっかけに危険な馬上槍試合に挑み、夢を叶える物語」である。中世ヨーロッパには似つかわしくない――しかしこの映画のために作られたかと思うようにはまったロックの名曲の数々をバックに、主人公のウィリアムがスポーツライクに描かれた馬上槍試合に勝利していく姿は爽快の一言。映画の舞台になった時代は英仏百年戦争や14世紀半頃のヨーロッパでの黒死病(ペスト)の大流行などによって、王権や諸侯が力を持つ「封建社会」が大きく揺らいだ時期であったという。ウィリアムが身分の枠を超えて成りあがっていく希望あふれた物語は、時代の変化の中で決して夢物語ではない物語であったのかもしれない。そんな時代を舞台に、夢を追いかけ努力することの素晴らしさという普遍的なテーマを扱いながら、ウィリアムのひたむきな姿勢と勇気、仲間たちとの絆に観る者は魅了され、感動させられる。そんな作品であった。

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