HOKUSAI(2020年)





DATE

日本

監督:橋本一


<主なキャスト>

葛飾北斎(青年期):柳楽優弥
葛飾北斎(老年期):田中泯
柳亭種彦:永山瑛太
喜多川歌麿:玉木宏
コト:瀧本美織
滝沢馬琴:辻本祐樹
永井五右衛門:津田寛治
東洲斎写楽:浦上晟周
葛飾北斎(少年期):城桧吏
麻雪:芋生悠
お栄(応為):河原れん
高井鴻山:青木崇高
蔦屋重三郎:阿部寛
        ……etc



目次


『HOKUSAI(2020年)』の作品解説

キーワード『葛飾北斎(宝暦10年(1760年)~嘉永2年(1849年))』

『HOKUSAI(2020年)』のストーリー

『HOKUSAI(2020年)』の感想



【作品解説】

 2021年5月28日に劇場公開された伝記映画。海外でも高く評価される浮世絵師、葛飾北斎の謎めいた人生を版元の蔦屋重三郎と盟友の柳亭種彦とのエピソードを軸に描かれている。北斎の青年期を柳楽優弥、老年期を田中泯がそれぞれ演じている。





【葛飾北斎(宝暦10年(1760年)~嘉永2年(1849年))】

 江戸時代後期。文化期(1804年~1818年)、文政期(1818年~1831年)に顕著に発展した町人文化を化政文化と呼んだりする。浮世絵師の葛飾北斎は、化政文化を代表する浮世絵師として、当時から高い知名度を持っていたという。90歳で死去するまで、自ら「画狂人」を名乗るほど画業一筋の生涯を送り、3万4千点を超える作品を残した。その対象は、花魁や力士、役者、歴史人物といった人物画、人の仕草、富士山を始めとした自然風景、波や雨などの自然現象、虫や鳥、建物や草花、はては妖怪や龍、象や虎といった空想の中でしか見られない生きものまで、森羅万象に及んだ。画業分野も版画(摺物)の他に、肉筆浮世絵や絵手本、春画など多岐に渡った。西洋由来の絵画技術にも関心を示し、ガラス絵や油絵などの研究も試みたという。北斎の画業は、欧州にも波及し、19世紀後半のヨーロッパでの日本趣味ブーム(ジャポニスム)を巻き起こし、ヨーロッパ美術にも大きな影響を与えた。1999年にアメリカの雑誌「ライフ」が選定した「この1000年間で最も偉大な業績をあげた世界の100人」に日本人で唯一選ばれている。

 北斎の出自に関しては、確たる史料が見つかっていないという。定説では宝暦10年9月23日(1760年10月31日)、江戸本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれた。家系に関しても幼少期に鏡師の中島伊勢の養子となったなど様々な説があるが確たる史料はないとされる。幼名も諸説あり飯島虚心が著した「葛飾北斎伝」では幼名は時太郎、その後に鉄蔵を名乗ったと伝えられている。子供の頃から絵を好み、15歳頃は木版画の版下彫りをしていたという。安永7年(1778年)に、経緯は不明だが、当時の浮世絵界の一大勢力であった勝川派の頭領、勝川春章に師事し、絵師としてキャリアを歩み始めた。翌年には勝川春朗の名で作品を発表するようになる。号である春朗は、師匠の号である「春章」の春と、別号の「旭朗井」の朗から取られており、破格の扱いであった。 寛政4年12月(1793年1月)に勝川春章が逝去すると、寛政6年(1794年)に16年間所属していた勝川派から離れることになる。伝統的な浮世絵を重視していた兄弟弟子の勝川春好との不仲が原因との説もあるという。

 勝川派を離れた北斎は、どのような繋がりがあったかは分からないが琳派の領袖、俵屋宗理から宗理を襲名したと考えられている。その数年後、門人に宗理の号を譲り、俵屋一派から離れ、その後はどの画派にも属さなかった。寛政7年(1795年)頃から文化元年(1804年)頃は「宗理時代」などと呼ばれる独自の様式を確立した時期だったとされる。この間は様々な画号を用いていたという。文化2年(1805年)頃から、葛飾北斎の号を用いるようになったという。この頃、江戸の流行の変化から、曲亭馬琴などと提携して読本の挿絵制作に力を注ぐようになり、それが画風にも大きな影響を与えたという。北斎の技術、知識、発想力は他の絵師の追随を許さず、挿絵を芸術の域にまで高め、読本の隆盛に大きく貢献したという。しかし、後年、挿絵の内容を巡り馬琴との間に確執が生じたとも伝えられる。

 文化7年(1810年)頃から「戴斗」の号を使っていたという。この頃から絵手本(絵の描き方を習うために、手本の絵が描かれた本)の制作に力を注ぐようになる。絵手本は門人への教育用に制作される類のものだったが、観賞用とされることが多かった。文化11年(1814年)に初編が刊行された「北斎漫画」は北斎の代表作として知られ、ヨーロッパなどの海外でも「ホクサイ・スケッチ」と呼ばれ、多くの芸術家に影響を与えた。文政3年(1820年)から10年超の期間、「為一」の画号で活動した。天保2年(1831年)に北斎の代表作の一つである「富嶽三十六景」の刊行が始まった。「富嶽三十六景」は好評を博し、名所絵(日本各地の名所を題材とした絵)の様式が確立され、役者絵や美人画と並ぶジャンルとして認知されるようになった。

 天保5年(1834年)から翌年にかけて富士山を代々とした絵の集大成として「富嶽百景」が刊行された。その跋文(あとがき)は北斎の名言として知られ、70歳以前までに描かれた多彩なジャンルの膨大な作品を取るに足らないものと切って捨て、90歳、100歳、さらにその先の画業への強い向上心や気概を語っている。天保10年(1839年)に、当時住んでいた住居を火事で焼け出され家財や商売道具の多くを失った。そのため、徳利を砕いて底を筆洗とし、破片を絵皿として絵を描いたという逸話も残されているという。北斎の有名な逸話の一つが生涯に93回もの転居をしたというものがある。1日に3回もの引っ越しをしたこともあったという。数字については根拠を疑問視する声もあるらしいが、北斎の転居癖は当時から有名で、絵を描くことを何より優先した北斎は、片付けをすることもなく、住居が住みにくくなったら引っ越すという生活を送っていたから、とも言われている。北斎は嘉永2年(1849年)春頃、病床に伏した。4月18日、浅草聖天町遍照院の境内にあった仮宅で息を引き取ったという。享年90歳。辞世の句は「人魂で ゆく気散じや 夏野原」であったと残されている。またその死に際して「天我をして十年の命を長ふせしめば、真正の画工となるを得べし(天がもう10年命を延ばしてくれたら、真の絵師になれるだろう)」という言葉を残したとも伝えられ、死の直前まで絵師としての向上心は衰えておらず、もっと絵を描きたかったという未練も感じられる。



【ストーリー】

 江戸時代後期。江戸の町人の享楽を禁止しようとする幕府は、浮世絵のことも敵視していた。版元の蔦屋重三郎の店にも幕府の役人たちが踏み込み、浮世絵は没収されて燃やされてしまう。荒れ果てた店の中で従業員たちが意気消沈する中、重三郎は瑣吉に、「蔦屋が江戸で頭一つ抜けた版元だとお上のお墨付きをもらえたようなものだ」と豪胆に言う。そんな折、重三郎は勝川春朗(後の葛飾北斎)という浮世絵師の名を知る。瑣吉もその名を知っていて、何度か描かせたことがあるという。春朗は勝川派に属していた絵師だったが、自分勝手な性格で兄弟子と衝突して勝川派を破門され、今は食うや食わずの貧乏絵師であった。重三郎は春朗に自分の下で描いてみないかと誘うが、自分の好きなものを好きなように描きたい春朗はそれを断る。

 数日後、春朗は自分の家の前に小判が置かれているのに気付く。重三郎からの施しだと気付いた春朗は、蔦屋に返しに行くと、遊郭にいるという。遊郭に赴いた春朗は、喜多川歌麿と出会う。歌麿は春朗の絵を「下手ではないが色気がない」「上っ面を似せて描いているだけで命がない」と辛らつに評する。歌麿の絵に対抗意識を燃やした春朗は、蔦屋に絵を持ち込むが、重三郎は「お前は何のために絵を描いている?」と春朗に問う。春朗にとって絵は、底辺から這い上がる手段にすぎなかった。そんな春朗に重三郎は「そんな絵ならやめてしまえ」と吐き捨てる。ある時、蔦屋に東洲斎写楽という絵師の絵が持ち込まれた。道楽で描かれたというその絵に重三郎は惚れこみ、金のかかる技法で摺り上げ、大々的に売り出す。蔦屋を訪れた春朗は重三郎に誘われて写楽のために設けられた宴席に同行する。写楽の「自分の心の赴くままに絵を描いた」という言葉に苛立ち、春朗は席を立つ。

 春朗は放浪の旅に出る。自分は何のために描くのか。何を描きたいのか。筆を燃やそうとした春朗だったが、それでも絵を捨てることができなかった。海に出た春朗は波にもまれながら答えを掴み、海岸の砂地に夢中で絵を描いた。江戸に戻った春朗は重三郎の元に向かう。重三郎は江戸煩い(脚気)にかかっていて、余命はほとんど残っていなかった。春朗が重三郎に「自分が描きたいものを描いた」と差し出した絵は波の絵だった。さらに春朗は自身の号を動かない唯一の星である北極星にあやかって「北斎」としたと語る。春朗と重三郎が祝杯を交わしてほどなくして、重三郎はこの世を去る。

 それから時を経て、「北斎」は人気の絵師となり弟子をとり、コトという妻を迎えていた。絵に対する情熱はますます強くなっているがこだわりの強さも相変わらずで、挿絵の仕事をもらった滝沢馬琴と衝突することもたびたびだった。そんな折、新しい挿絵の仕事が舞い込んでくる。柳亭種彦という作家が書いた妖怪物の小説を寝食を忘れて北斎は読みふける。幕府からの締め付けもさらに苛烈さを増していた。コトの妊娠が分かるが、北斎はこんな世の中に生まれてくる子供が本当に幸せになれるのだろうか、と悩み素直に喜べない。そんな北斎をコトは、自分たちが喜んであげなくてどうするのか、と叱咤する。二人の子が生まれ、笑顔であやす北斎。それからさらに時間が過ぎ、コトは鬼籍に入り、北斎も老年を迎えていた。幕府による町民の娯楽への締め付けはますます強くなっていた。北斎と柳亭種彦の交流は続いていた。種彦は武士であり、作家業に手を染めてはいけない人間だった。



【感想】

 世界的な絵師である葛飾北斎を主役にした作品とあって、とても芸術的な作品という印象を受けた。北斎がまだ世間に認められていなかった時期に始まり、その晩年までを描いており、青年期・老年期を演じた二人の主演の、絵に取り憑かれたかのような鬼気迫る演技が印象に残る作品である。ただ、歴史映画・伝記映画として見たら「う~ん」と思ってしまった。歴史映画などを制作するとき、史実や史料になるべき寄り添いながら描くべきか、あくまでモチーフと割り切って想像力を自由に膨らませて描くべきか、きっと制作者も悩むのだろうと思う。ただ終盤に老年期の北斎が青い顔料を頭からかぶる場面に関してはどうにも納得ができなかった。北斎は貴重な絵の具を無駄にするより一枚でも一筆でも描きたいという人間だと思っていたのだが、この行動に関しては説明もなく、北斎というキャラクターよりも、シーンを優先してしまったような印象を受ける。この映画の印象としては自分の中に北斎像を持っていると、首を捻ったり疑問を感じる部分が多々出てくるように感じるので、予備知識なしで見た方が良いのでは、と思う。

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