日本
監督:成島出
原作:門井慶喜『銀河鉄道の父』(講談社文庫)
<主なキャスト>
宮沢政次郎:役所広司
宮沢賢治:菅田将暉
宮沢トシ:森七菜
宮沢清六:豊田裕大
宮沢イチ:坂井真紀
宮沢喜助:田中泯
……etc
キーワード『宮沢賢治(明治29年(1896年)~昭和8年(1933年)』
2023年5月に劇場公開された。詩人、童話作家として知られる宮沢賢治の父、宮沢政次郎の視点から、息子に振り回されながらも、彼の才能を信じる家族の絆を描いている。原作は門井慶喜の同名小説。『小説現代』に2016年から2017年にかけて掲載され、2017年9月に講談社から単行本が刊行された。第158回(2017年下半期)の直木賞を受賞した。
「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」などの童話や、「雨ニモマケズ」など詩文で知られる宮沢賢治。37年の生涯で数多くの童話や詩文などを残し、現在では宮沢賢治の童話や詩は国内、国外問わず広く親しまれているが、生前に刊行された著書は2冊だけで一般には無名の存在だった。
宮沢賢治は明治29年(1896年)8月27日、岩手県花巻川口町(現在の花巻市)で質屋や古着屋を営む宮沢政次郎とイチの長男として生まれた。2歳年下の妹トシをはじめ弟が1人と妹が3人の兄弟であった。明治36年(1903年)に花巻川口尋常小学校(2年後に花城尋常小学校名称変更)に入学。学業は優秀な少年だったという。小学校3、4年生の担任が童話や民話をよく話して聞かせたことが、賢治に大きな影響を与えたという。また、鉱物や植物、昆虫採集など自然に興味をもつ少年時代を過ごしたという。
明治42年(1909年)、県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に進学。寄宿寮生活を始める。鉱物採集に熱中し、岩手山登山に魅せられるようになるなど自然への興味は相変わらず持っていたものの、中学4年の時に新任の舎監とのトラブルから4、5年生全員が大量処分になる事件が起き盛岡市北山の清養院(曹洞宗)に下宿することになったことや、もともと家業を嫌っていた為、将来を悲観したことなどがあり成績は落ち込んでいたという。大正3年(1914年)盛岡中学校を卒業する。4月に肥厚性鼻炎手術のために入院するが、高熱が続き発疹チフスの疑いで5月末まで入院した。この時、看病に当たった政次郎も倒れてしまい、賢治はそのことを後年まで後ろめたく感じていたという。その後、家業を手伝いながら盛岡高等農林学校進学の準備を進め、大正4年(1915年)、首席で入学した。高等農林学校では勉学に励む傍ら学内の同人誌などに連作短歌や散文などを発表する。また日蓮宗に傾倒するようになっていった。
大正7年(1918年)、盛岡高等農林学校を卒業。研究生として学校に残る。大正9年(1920年)に元日蓮宗僧侶だった田中智学が創設した法華宗系在家仏教団体の国柱会に入会。父との軋轢の末、翌大正10年(1921年)1月に無断で上京する。本郷菊坂町に下宿し、ガリ版印刷所で働き、日蓮宗の布教活動などに加わりながら、「法華文学」の執筆などに力を注いだ。しかし、夏に妹トシが病に倒れたため帰郷。12月から花巻農学校で教員として勤務するようになる。教壇に立つ傍ら、地元の新聞や同人誌に詩や童話を発表する。トシは大正11年(1922年)11月に結核で死去した。賢治の最大の理解者であったトシの死は、後の創作活動にも大きな影響を与えたと言われる。大正13年(1924年)に詩集「花と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を刊行する。大正15年(1926年)3月に農学校を退職し、地元の青年らを集めて羅須地人協会を立ち上げ、農業技術や農業芸術論を講義したり、文化活動などを行った。しかし、賢治の病気療養などのため2年弱で志半ばで活動を閉じた。
病状にやや回復の兆しが見えていた昭和6年(1931年)頃の一時、東北採石工場技師として石灰の宣伝販売に奔走していたが、再び病状は悪化。昭和8年(1933年)9月21日に死去した。晩年はほとんどを病床ですごし旧作の推敲を重ねていたという。有名な「雨ニモマケズ」は昭和6年11月3日に手帳に記した独白であった。生前の一般的な知名度は低かった宮沢賢治だったが、文壇においては注目されていたことや、草野心平や高村光太郎らの尽力もあり著作が刊行された。一年後には文圃堂から全3巻の全集が刊行されている。宮沢賢治が残した膨大な作品は、その死後人々の心をつかみ、徐々に再評価の動きが進んでいった。
明治29年(1896年)、岩手の花巻で質屋を営む宮沢政次郎の長男として宮沢賢治は生まれた。旅先から喜び勇んで帰ってきた政次郎は、店番をしていた父、喜助に挨拶もなく飛び込んで行き、喜助に呆れられてしまう。喜助はすでに賢治と命名し、半紙にしたためていた。政次郎は賢治を可愛がり、賢治が赤痢で入院すると病院に泊まり込んで看病するほどだった。中学を卒業した賢治に、政次郎は質屋を継ぐ勉強を始めるように言うが、賢治は質屋は貧しい農民から搾取する仕事だと嫌悪を露にする。とりあえず店番をさせてみると、金を借りにきた男の嘘に騙されて余計に金を貸してしまう有り様だった。そんな賢治に懐いているすぐ下の妹・トシは、子供の頃のように童話を書いたらどうか、と勧める。賢治は文筆も質屋の商いにも自信が持てず自分の才ではないと進学したいと申し出る。トシの後押しもあり、農民の役に立ちたいと森岡高等農林学校に進学する。賢治は人造宝石を売る商売を思いつき資金援助を求めるが、政次郎は夢のような話だと断る。
トシは東京の女学校に進学した。トシは痴呆が進み暴れるようになった喜助を鎮めることができる肝の据わった女性に成長していた。逆に喜助の死に触れた賢治は、家の宗教とは違う日蓮宗に傾倒するようになり、農林学校を辞めると言い出す。賢治は日蓮宗に救いを求め題目を唱えながら町を練り歩くようになった。日蓮宗の教えに命を懸けると言い出した賢治を、政次郎は「まともに生きていないくせに死ぬなどと軽々しく言うな」と声を荒らげる。賢治は家出し、東京の日蓮宗の道場に通いながら、文筆活動を続けていた。政次郎らは金銭を送るが、手を付けずに帰ってきていた。ところが賢治の下に、トシの急病を知らせる電報が届いた。賢治はトシに読ませるために童話「風の又三郎」を書き上げ、帰郷する。トシは結核におかされて、別宅で静養していた。トシのために童話を書き続ける賢治。トシとの穏やかな時間が過ぎる。しかしトシの病状は悪化し、雪の降る夜、家族に見守られながら息を引き取る。トシが荼毘に付されようとした時、賢治は日蓮宗の題目を精いっぱい唱えてトシを送ろうとするが力尽きてしまう。トシがいない今、もう自分には何の力もないと嘆く賢治に、政次郎は童話を書けと叱咤する。
賢治は文士として活動を始める。自費出版した詩集「春と修羅」を政次郎に贈った。その後も東京で創作活動を続け、書評では高い評価を受けていたが、人気は出ず本屋では半値で売られている始末だった。たまたま東京に所用で出ていた政次郎は、本屋の店頭に並んでいた賢治の本を全て買い取るが、賢治の下宿には沢山の売れなかった本が積み上がっていた。故郷に戻った賢治は、トシが静養していた別宅で、文筆活動をしながら『羅須地人協会』を立ち上げて農民に農業指導を始めた。ようやく賢治に穏やかな生活が訪れていた。政次郎は質屋を閉じる決意をしていた。店は弟の清六に譲り、清六は新たな商売を始めるという。そんな政次郎に、賢治はお父さんのようになりたかったと告げ、笑いあう。ところが賢治にもトシと同じ病魔の手が伸びていた。
宮沢賢治を中心にした伝記映画というより、宮沢家の父と息子を中心にした家族の愛と絆の物語。実を言うと宮沢賢治の代表作の幾つかは読んだことがあっても彼の生涯についてはほとんど知らずに見た映画だった。この映画を観賞したた時、宮沢賢治の代表作とされる「雨ニモマケズ」の詩文を初めて読んだとき、彼がどんな人生と送ってあのような心境に至ったのだろうか、と少し興味が沸いたのを思い出した。この映画は創作だが、何となくわかったような気がした。裕福な家庭に生まれ、立派な父と愛すべき家族を持ち、しかし病弱な体に、文芸で身を立てるという願いも叶わず、宗教に救いを見出し、農民に寄り添って生きることにささやかな幸せを見出して――。宮沢賢治の享年は37歳。生前は童話作家や詩人としてはほぼ無名の存在であった。人によっては彼は不幸な人生だったと言うかもしれない。おとなしく実家の稼業を積んでいた方がよっぽど幸せな人生を送れたはずなのに、と言うかもしれない。人はどんな生き方をすれば幸せなのか。もっと言えば人は何のために生きるのか。色々なことを考えさせられる映画だったと感じる。