日本
監督:平山秀幸
US班監督:チェリン・グラック
原作:ドン・ジョーンズ『タッポーチョ―「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』(中村定(著)/祥伝社)
<主なキャスト>
大場栄 大尉:竹野内豊
ハーマン・ルイス 大尉:ショーン・マッゴーワン
青野千恵子:井上真央
木谷敏男 曹長:山田孝之
奥野春子:中嶋朋子
尾藤三郎 軍曹:岡田義徳
金原 少尉:板尾創路
永田 少将:光石研
池上 上等兵:柄本時生
伴野 少尉:近藤芳正
馬場明夫:酒井敏也
大城一雄:ベンガル
ウェシンガー 大佐:トリート・ウィリアムズ
ポラード 大佐:ダニエル・ボールドウィン
元木末吉:阿部サダヲ
堀内今朝松 一等兵:唐沢寿明
……etc
『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~(2011年)』の作品解説
『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~(2011年)』のストーリー
『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~(2011年)』の感想
2011年2月に劇場公開された戦争映画。原作は元アメリカ兵ドン・ジョーンズの『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』。太平洋戦争で悲惨な激戦が繰り広げられたサイパン島で、玉砕を生き延びわずかな兵とともに終戦すら知らず抵抗を続けた実在の人物、大場栄大尉と仲間たちの物語を日米双方の視点で描いている。
昭和16年(1941年)12月8日のマレー作戦と真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発してから2年強。対アメリカの戦争でも当初は優勢だった日本軍も、物量に勝るアメリカ軍の前に劣勢に立たされていた。この状況に日本側は昭和18年(1943年)9月30日、御前会議で日本の本土防衛・戦争継続のために確保すべき勢力圏として絶対国防圏を設定した。これは千島列島→マリアナ諸島→フィリピン→ビルマ(現ミャンマー)を線で結びその内側を維持すべき領域としたものであった。しかし、後方の防衛線で反撃体制を整えたい日本陸軍と戦線の後退は最小限にとどめたい日本海軍では戦線に対する方針が異なっており、足並みはなかなか揃わなかった。また昭和19年(1944年)になると日本陸軍は中国大陸で大規模な攻勢を行う方針転換を行い、マリアナ諸島に派遣予定だった中国大陸の第13師団の派遣が中止されるなど、作戦方針も迷走した。これらは防衛体制構築の遅れの一因となった。
対してアメリカ軍は着実に日本の勢力圏を削っていた。チェスター・ニミッツ司令官が率いる太平洋方面軍は、1943年11月にギルバート諸島、1944年2月にマーシャル諸島の日本守備隊を壊滅させてさらに西進し、日本の絶対国防圏の要であるマリアナ諸島に迫っていた。ダグラス・マッカーサー大将が率いる南太平洋方面軍はニューギニアを西進し、フィリピンの奪還を目指していた。日本海軍連合艦隊はソロモン諸島、トラック諸島、パナマ諸島とアメリカ軍に追い立てられる格好で司令部の移転を余儀なくされた。日本もアメリカ軍もマリアナ諸島を非常に重視していた。日本にとっては絶対国防圏の要であり、ここを失えば宣戦を維持することができなくなる。対するアメリカ軍はマリアナ諸島の中心のサイパン島を手に入れれば、重爆撃機B-29スーパーフォートレスが、日本の主要都市のほとんどを空襲することができるようになるのである。B-29はアメリカが新開発した4tの爆弾を搭載できる航続距離5600㎞の空の要塞であった。
日本の大本営の参謀の多くが、アメリカ軍は先にパラオを陥落させてからサイパン島攻略に動く、と考えておりサイパン島にアメリカ軍が攻撃を開始するのは1944年の秋以降と考えていた。サイパン島ではアメリカ軍との決戦に備えての要塞化が進められていたが、大本営の楽観的な戦況判断やアメリカ軍の潜水艦や航空機などによって輸送船が沈められて物資や武器が届けられなかったことなどがあり、1944年6月6日にアメリカ軍12万7千の上陸部隊を乗せた輸送船団と約900機の航空機を搭載した空母15隻からなる大艦隊がマーシャル諸島を出撃した時には、迎撃態勢が整っているとは言い難い状況だった。水際作戦でアメリカ軍を迎え撃とうにも武器、物資が不十分であり――それどころか、輸送を担当した海軍が物資を陸軍に分配しないなどということもあったという。
サイパン島を含めたマリアナ諸島は第一次世界大戦(1914年~1918年)の頃はドイツ領であった。しかし、第一次世界大戦でドイツが敗れると国際連盟統治として日本に委任されていた。1933年に日本は国際連盟を脱退したが、そのまま統治を続けていた。サイパン島は南北に約20km、幅約8~9kmの細長い地形をしており、伊豆大島の約2倍の広さである。戦前は内地から南洋への玄関口としてや、同じく日本の委任統治領であったパラオやマーシャル諸島、カロリン諸島などとの貿易の中継地として栄えていた。太平洋戦争が勃発すると太平洋戦線の重要拠点として機能していた。人口は3万人強が暮らしていた。サイパン島の戦いの頃の日本守備隊は陸軍2万8千、海軍1万5千。海軍中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将が総指揮を執っていた。サイパン島防衛の陸軍司令官だった小畑英良は出張中で不在であった。
6月11日から4日間に渡ってアメリカ海軍空母機動艦隊がサイパン島に空爆を行った。13日~14日にはサイパン沖に艦隊が現れ艦砲射撃を行った。15日早朝、夜明け前からの艦砲射撃の後、チャランカノアの市街地を挟んで北と南の海岸にアメリカ軍の部隊が上陸作戦を開始する。日本軍の守備隊が大損害を受けつつも上陸部隊に火砲による一斉射撃を食らわせた。アメリカ軍の上陸部隊は何とか体勢を立て直し戦線の建て直しに成功するが、上陸部隊はこの日上陸した約2万人の内、約1割が死傷したという。日本軍守備隊は水際撃退作戦をとって決死の抵抗を続けた。サイパン島の日本軍守備隊の兵士は実戦未経験の練度の低い部隊であったという。そんな中、サイパン島の日本守備隊は善戦したと言われる。上陸したアメリカ軍による拠点の建設を阻止すべく、戦車による夜襲を仕掛けるも、アメリカ軍は照明弾を大量に打ち上げ戦場を昼間のように明るくし、日本軍の戦車はアメリカ軍のバズーカ砲の的となり、突撃部隊は全滅した。水際撃退作戦は完全に失敗し、アメリカ軍はサイパン島内部に侵攻。6月18日にはサイパン島の空港が占拠され、日本軍守備隊は島の北部に追いやられた。アメリカ軍の上陸から1週間で日本軍守備隊は6割の戦力を失ったとされる。
6月18日。サイパン西方700海里に、小沢治三郎が率いる第一機動艦隊が結集していた。「あ号作戦」――アメリカ艦隊の総力を結集し。サイパン島周辺のアメリカ軍の機動艦隊を一掃しようというものであった。第一機動艦隊はアウトレンヂ戦法でアメリカ軍の艦隊に挑んだ。これは。日本軍の戦闘機の方がアメリカ軍の戦闘機よりも航続距離が長いことを利用し、アメリカ海軍機動艦隊が錨泊する700km手前から400機の攻撃機を飛び立たせ、敵がこちらの間合いに入る前に殲滅するというものであった。しかし、太平洋戦争勃発当初の経験豊かな戦闘機搭乗員の多くが命を落としており、訓練不足のまま配属された搭乗員には荷の重い戦法であった。6月19日早朝――。作戦は実行に移される。しかし、もはや日本海軍とアメリカ海軍の戦力の差は如何ともし難いものになっていた。ようやくアメリカ海軍機動艦隊に辿り着いた日本海軍の攻撃機の動きはアメリカ軍の精巧なレーダーによって把握されおりアメリカ軍の攻撃機の待ち伏せに会い次々と撃墜された。そこをかいくぐりアメリカ軍の艦船に辿り着いても、対空砲火に使用したVT信管(近接作動信管)を装備した砲弾は、攻撃機に当たらなくても30mの範囲に入り込めば反応して爆発し、日本軍の攻撃機は次々と撃ち落とされた。翌20日、アメリカ軍の攻撃機80機が第一機動艦隊を空襲。第一機動艦隊は、空母3機を失い壊滅した。
サイパン島の内部に逃れた日本軍の守備隊は、サイパン島のタッポーチョ山に逃げ込み、抵抗を続けていた。アメリカ軍の攻撃は22日から開始されたが、日本軍守備隊はゲリラ戦や白兵戦で抵抗した。日本軍守備隊の懸命な抗戦は、アメリカ軍を予想以上にてこずらせた。しかし、26日にはタッポーチョ山もアメリカ軍の手に落ち、日本軍守備隊は島民とともに島の北端へと移動した。日本軍は援軍が来ることを信じていた。しかし、もはやサイパンの救援に回せる艦隊はなく、大本営はサイパンの放棄を決定し、7月上旬までに玉砕すべし、という命令を下していた。南雲中将は将兵に玉砕命令を伝えた。7月6日、部隊の戦闘開始に先立ち南雲中傷を含め日本軍守備隊の将官3名が、サイパン島北端のマッピ岬に近い洞窟の中で割腹自決した。翌7日午前3時頃、約3000名の将兵がアメリカ軍陣地に向かって「天皇陛下万歳!」を叫びながら万歳突撃を敢行。アメリカ軍にも多数の死傷者を出しながら約7時間の戦いの末全滅したと伝えられている。サイパン島の戦いは民間人を巻き込む凄惨なものとなった。アメリカ軍の圧倒的な火力による掃討作戦に巻き込まれ民間人にも多くの犠牲者がでた。婦女子を含めて大勢の島民が捕虜になるのを恐れての玉砕や集団自決を選び、日本軍守備隊の玉砕に際し、民間人も絶望のあまりマッピ岬から身を投げたという。その数は、推定8000人から12000人と言われている。
サイパン島の陥落は日本の敗戦を決定づける出来事であった。大本営のある参謀は「もはや希望ある作戦指導は遂行しえず」と業務日誌に記したという。陥落の2週間後には東条英機総理大臣も辞任。この劣勢を跳ね返す能力はもはや日本にはなく、完全に行き詰った。サイパン島の飛行場からは次々とB29が飛び立ち、本土の主要都市が直接標的となる空襲が行われるようになった。しかし、戦争はこれから1年以上も続いた。サイパン島の戦いも組織だった戦いは7月7日の玉砕で終わったが、数少ない生き残りはゲリラ化しタッポーチョ山を拠点として抵抗を続け、終戦が終わった後の1945年12月1日に投降した。
1944年夏のサイパン島。圧倒的な兵力と物量を投じて制圧作戦を展開するアメリカ軍を前に、日本軍の守備隊は抗戦を続けるも追い詰められていた。アメリカ軍のサイパン島制圧の指揮官であるポラード大佐は、ここまで追いつめられても何故日本軍が抗戦の意思を失わないのか、日本に留学経験のあるルイス大尉に尋ねる。ルイスは将棋を例えに出し、降伏するのは天皇への裏切りなのだと言う。しかし、そんな日本軍の兵士に玉砕の命令が下された。7月7日、玉砕に先立ちサイパン島の日本軍守備隊の司令官らが割腹自決し、全軍が突撃を開始する。油断していたアメリカ軍に大きな損害を与えるが、日本軍守備隊は全滅した。
生き残っていた大場大尉は堀内上等兵に助けられる。大場大尉は堀内上等兵らとともにタッポーチョ山に移動する途中、荒れ果てた民家に赤子がいるのに気付く。アメリカ軍に見つけられたら助かるかもしれない。大場大尉は目印を残して先に進む。山中で、生き残っていた仲間たちと合流し、200名ほどの民間人も逃れて野営していることを知る。最初は、アメリカ軍と戦うことばかり考えていた大場大尉だったが、アメリカ軍の空爆によって民間人に犠牲者が出たことを知り、彼らを守ることが自分のなすべきことだと悟る。そんな大場に、アメリカ軍にを憎む青野千恵子は辛辣な言葉を投げかける。
大場大尉は地形や気象を巧みに利用し、罠を張って爆弾の餌食にしたりしてアメリカ軍の制圧部隊を翻弄する。いつしかアメリカ軍の中で、フォックスと呼ばれて恐れられるようになっていた。アメリカ軍も、実力での制圧を目指していたポラード大佐が更迭され、新任の指揮官はルイス大尉の献策を受け入れて投降を呼びかける方向に方針転換する。ルイス大尉はそのために収容所の日本人民間人に協力を求める。アメリカ軍は、空襲によって灰燼と化した日本の諸都市の写真を空からまいて日本の現状を伝え、投降を促そうとした。野営地の日本人兵士や民間人の間で動揺が広がる。大場大尉は収容所に潜り込み、日本人たちから戦況の悪化を聞かされ、大場大尉もサイパンを飛び立つB-29の機影に愕然とする。アメリカ軍に協力していた元木は大場大尉とルイス大尉を合わせようとするが、医薬品を求めて収容所に侵入していた青野と堀内上等兵らがアメリカ軍の歩哨と戦闘になり堀地内上等兵は死に、青野は負傷してアメリカ軍に捕まった。
タッポーチョ山の野営地に戻った大場大尉は、食料の医薬品もない今の状況でこれ以上民間人をとどめるのは危険だと考え、アメリカ軍に投降するように伝える。しかし、大場大尉の戦いが終わったわけではなく変わらず抗戦を続けるが、本国は無条件降伏をし、戦争は終わっていた。そのことを知らされても、タッポーチョ山で戦いを続ける兵士たちは信じることができない。そんな状況が続く中、大場大尉はルイス大尉との面会を求め、両者は対面する。「どうすれば日本兵は投降するのか」と問うルイス大尉に、大場大尉は「日本の軍人は上官の命令には必ず従う」と返す。その時、一発の銃声が響き渡る。
最初のしばらくがアメリカ側の視点で、ずっと英語で状況説明されるのが何だかしんどく感じたのでたので、自分の中では少し印象の悪い映画なのではあるが、日本の戦争映画の中では秀作の方に入ると思う。出演者が戦前の日本人をしっかりと演じていると感じ好感が持てた。散っていった戦友たちのためにに弔砲を撃ち、戦い抜いた47人の日本軍兵士たち「歩兵の本領」を歌いながら行進し、大場が刀を差しだし投降する場面は、よくぞ映像化してくれたと感じた。戦争の悲惨さばかりを追求した映画でも、日本の軍人の高潔さを描いた戦争賛美の映画でもない。どちらかと言えば淡々とした語り口で、大場大尉も英雄として扱われているわけでもない。大場大尉も、仲間の兵士も、民間人も、アメリカ兵も、各々の立場に立って精一杯に戦っていたのだと、複眼的に描けているように感じて、好感が持てた。
個人的に印象的だったのが、戦争が終わってなお、戦いを放棄しない大場大尉にアメリカ軍の士官が直接会って投降を促す場面。死に場所を求めているのか戦いをやめることができない若い兵士が乱入し銃を撃つ。この時に射殺したのが、アメリカ軍の士官や兵士ではなく、通訳として同行していた日本人だった。彼にとってはアメリカ軍の軍人より、自決もせずアメリカ軍に協力している同胞の方が憎かったんだろうな、と思うと何だか複雑な気分になった。